コイブチ夫婦の建築旅 森の礼拝堂

わたしたちコイブチ夫婦は一級建築士同士。休日に出かけるとしたら、行き先は自ずと建築巡りが多いです。ということで、建築旅や建築探訪をつづっていきます。

-1-
森の礼拝堂

去年(2023年)の8月、北欧へ旅に行くことができました。今年は行けないので、よし、思い出し旅だ。建築の旅を記してみたいと思います。

なぜ北欧かというと、とりわけ、スウェーデンの建築家である故アスプルンドの建築と、フィンランドの建築家である故アルヴァ・アアルトの建築を経験してみたかったからです。

エリック・グンナール・アスプルンドの設計による「森の礼拝堂」です。ここに行ってみたかった。

森の礼拝堂は、約100年前に建てられた葬儀をするための建築です。

スウェーデン・ストックホルムの郊外にある共同墓地「森の墓地」の敷地内。森の墓地は世界遺産に認定されています。

不思議な魅力を秘めた建築だなと、以前より本で眺めていました。

いざ、現地で森の礼拝堂に対峙してみると、その秩序・その素朴さ・その抑制の効いた構成に何とも言い難い感動を覚えました。

ところで、この教会、不思議にも日本の神社・寺の雰囲気にも、どことなく近しいものがあると思えませんか?

↑葬儀の参列者が礼拝堂内に入室している様子。葬儀中は、故人を見送る別れの歌が教会内から聞こえてきました。不特定多数を受け入れる公の場でありながらもまるで「家」のようなスケールや佇まい。

また一方で、写真右の人々は、森の墓地にお墓参りに訪れた人や、墓地を散歩する人々です。

森の墓地は広大な公園のような環境になっていて、葬儀やお墓参りに訪れる人のほか、日常的に散歩やランニングをしに来る方が結構いました。日本の一般的な墓地とは異なった風景で、とても新鮮でした。

そんな日常と非日常の交錯であったり、生と死の交錯であったり、日本人の私にとってなんとも不思議な環境経験となりました。

牧歌的な近代以前(プレモダン)の様式と、要素を削ぎ落とす近代の様式(モダン)が、アスプルンドのイマジネーションによってブレンド。

この建築こそが北欧近代建築の起源であると謳う建築史の専門家もいます。当時二十代半ばであった若きアスプルンドの記念碑的な建築。この本の表紙は、森の礼拝堂の正面の立面図です。この立面図が、全てを物語っているようです。三角屋根の下に扉と列柱。それだけの建築立面。

近代以前から近代へと、この時代のスウェーデンは社会が大きく動いていた時。人口増加に比例して死者の増加、土葬から火葬へという近代的な衛生思想への転換、つまり新しい時代における新しい墓地と葬儀場の必要。

森の墓地や森の礼拝堂が計画された背景にはそのような社会性があった。社会と建築はどの時代においても無関係ではあり得ません。若きアスプルンドが建築家として生き始めたのはそのような時代であったそうです。

なんとアルプルンドは20代前半という若さで森の礼拝堂を含む「森の墓地」全体の設計を担当する建築家に選ばれ、以後、この国家的な大プロジェクトに生涯をかけて関わっていったそうです。

アスプルンドの人生そのものが色濃く関係している場所です。ちなみに、アスプルンド自身やご家族の墓も森の墓地の一角にありました。

↑この写真の正面に位置するゲートが森の教会の導入部(アプローチ)。

広大な森の墓地には無数の歩行路が縦横に配置されています。その内の一本の歩行路のまっすぐ延長線上に、このゲートが位置していました。素朴かつ静謐に。とても抽象的な在り様でした。

森の礼拝堂がつくられた100年前は駐車場やアスファルト舗装がされていなく、以後に環境が変わったようです。

ゲートをくぐり、まっすぐ。森の礼拝堂が奥に。

森の中にひっそり。森との調和。儀礼が行われる礼拝堂であるにも関わらず権威性が希薄で、なんといっても素朴です。

素朴といっても抽象的でもあります。素朴なのに抽象、私はここに惹かれます。この建築の感動はこの点にあると思っています。

柱、屋根、扉… そもそも少ない要素が、随分と抑制的な造形で構成されています。

多くを語りすぎない建築。

気張らない建築。

でも、強かな美性・強かな秩序を確かに感じ得ます。

建築へと近づいて来ると、人に近い素材(壁・柱・軒天井)は白く塗装されています。遠景で見ていた屋根とは印象が対比的です。

森の教会を経験する人(故人の死を経験する人)の精神がより良く純粋化することを背中押しする建築。

人の気持ちの持ち様にそっと働きかける建築であると感じました。

これぞ、教会建築の核心なのではないか。ひいては、普遍的な建築というものの核心のひとつなのではないか。

ここまで来て、振り返ると気がつきました。進入してきたゲートがあんなに遠い、と。気が付いた瞬間、ちょっと恐ろしくなりました。生の世界から死の世界へと進んできて、もう故人は生の世界には戻れないのだと。そういう運命を物語られているかのような感覚が及びました。これは、森の礼拝堂の設計に込められた物語性なのかもしれません…。建築や環境の設計を通じ、人の体験の在り方が設計されている。

礼拝堂の隣に火葬炉(現在は使われていない)

礼拝堂のすぐ周囲には墓地が広がっている

内部のドーム空間に光を取り込む天窓。

煙突も裏口扉も開口部もシンメトリーの位置に。雰囲気は素朴だけれど、とても理性的に構成が施されている。素朴な理性。理性的な素朴。

おそらく列柱は、全ての柱が構造的に荷重を負っていない?柱の配置や劣化状態から鑑みるに、実は装飾としての柱を混在させているようです。装飾柱であることがさりげなく暗示されているような柱頭のディティール?(確かなことはわからないが)

内部には、あのドーム空間が。(見学者は原則、入室できない)

↑左、アスプルンド。右、森の礼拝堂の内部空間。

三角屋根(寄棟型屋根)の中にドーム状の天井を構成している。つまり、建築の外形(構造)と内部空間の形状が合致していない。このあたりに「近代建築って?」「装飾って?」という建築の命題があることは、もちろんアスプルンドは自覚的であったと、私は勝手に想像しています。近代思考的な「形態は機能に従う」とは別の思考で(内部空間は外形に従うとは別の思考で)この建築をつくったアスプルンドには、魅力的なロマンとモダンの融合を感じます。

こけら葺きの屋根(Wood Shingle Roof)であることもあって、森と建築が同化的。でも一方で、白い塗装の表現や明瞭な幾何学形状の造形には、森との対比というか異化的というか、人間環境や人工物としての自律性も感じます。

森(自然の環境)と建築(人間の環境)の関係が、同化的でもあるし異化的でもあるというような、なんとも言い難い両義的なものを感じました。このような両義性がこの建築の魅力の秘密なのではないだろうか

とっくに日本に帰ってきてこれを書いていますが、今この瞬間も、あの森に、あの礼拝堂が静かに佇んでいると思うと、なんとも言えない不思議な気持ちになります。今まで体験したことのない「生と死の間にあるような建築」であり、「素朴と抽象を兼ね揃えた建築」でありました。私はこの建築がとても好きです。

次の旅へ

#コイブチ夫婦の建築旅